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ベトナム旅行記 2

1月28日(水)
 今朝は7時に起きて、テレビを見る。最近はどこのホテルでもNHKのテレビが見られるようになった。
ベトナムでまたまた鳥インフルエンザ感染者が発生したとのニュースをやっている。鶏には近づかないようにするしかないか。

 今日は、まずホーチミン廟、文廟などを見てからバッチャン経由ハロン湾まで行く予定。

◆ まずは、ホーチミンさんに敬意を表する!
                               
 9時ホテル発、ホーチミン廟を訪れる。廟の近くでバスを降り、すべての荷物をガイドさんに預けて、ボディチェックを受けてから廟のほうへ向かう行列につく。
 廟の前を衛兵がおなじみスタイルで行進を繰り返している。廟に入るにはショートパンツや短パンではだめ、廟内では言葉も交わしてはいけないらしい。立ち止まってもいけない、一定の速さで歩いて、4人の衛兵に守られたホーチミンの遺体の脇をぐるっと回って出口へ向かう仕組みとなっている。
 ベトナム建国の父ホーチミンさん(1969年没)の遺体はホルマリン漬けにされガラスのケースに収められている。保存技術は機密事項だそうだ。(入館料 無料)
 

  ホーチミンさんとしてはこんな形で祭り上げられることは望んでいなかったのじゃないのかな〜?

  ホーチミン廟は上の写真のようにレーニン廟と似ている、それもそのはず旧ソ連の援助で1973年〜78年に建てられたと言う。直線的かつ左右対称、巨大で威厳のある社会主義建築様式そのものといった感じである。

 ホーチミン廟の前は、どことなくモスクワの赤の広場を思わせるような広大なバーディン広場。ここで1945年9月5日にホーチミン主席がベトナム民主共和国(当時)の独立宣言を読み上げたことで有名な場所。
 3万5000haもあり、街の喧騒とは無縁。

◆ つづいて、ホーチミンさんが住んでいた家

  以前は、フランス風の大きな建物に執務しかつ住んでいたそうだが、質素な生活をしたいと
ホーチミン廟の裏手にある森の中、池に面した質素な佇まいの住居に移ったそうだ。高床式で1階が会議室、2階が書斎風の部屋とベッドルームになっている。裏手には北爆時避難のための地下壕がある。

ホーチミンの家はホーチミン廟と同じく午前中の11時くらいまでの公開で、厳しい制限のある廟への入場と違って、家の方は普通の観光名所と同じく自由に見学することができる。(入館料 500ドン)

フランス風建築の官邸(現在は政府機関が入っている) 池に面して静かなたたずまいのバンガロー風の家

執務室 ベッドルーム
◆ ホーチミン博物館・一柱寺

 
 「ホーチミンの家」がある静かな森を抜けるとすぐ右手に白い立派な建物が見えてくる。これが「ホーチミン博物館」だ。
1990年ホーチミンの生誕100年を記念して、これまた旧ソ連などの援助で建てられたと言う。
今回は入館せず建物をカメラに収めただけ。
 
 すぐ近くに、ぼんやりしていたら気がつかないくらいの小さな祠風の寺院が小さな池の中に立っている、これが一柱寺。

 蓮の花をモチーフにして造られ、下から大きな柱一本(これは現在コンクリート製)で支えられているので一柱寺の名がある。1049年に造られ、11世紀のベトナムを代表する建築物のひとつだそうだ。蓮池の中に建つ現在の寺は、1954年に再建されたもの。

 子宝に恵まれなかった王が、悲母観音の夢を見た後,子供に恵まれたことに感謝の意をこめて建てられたと言う逸話も残されている。子宝祈願のためか?ひっきりなしに人が訪れ、お線香を手向けていた。



◆ 文廟(別名孔子廟)

 文廟に向かう。
 1070年に孔子廟として建立され、1076年には、国内最古の大学が開設された。したがって孔子廟とも呼ばれている(ただしガイドのハイさんは「孔子廟とは呼ばない」と力を込めて言い張る!)

 文廟の中には,亀の像の上に置かれた石碑がいくつも並んでいる。石碑には阮朝約300年間の科挙(官吏登用試験)の合格者82名の名前が彫られている。


 境内は広く、ハノイ中心部にありながら町の雑踏からはなれてとても静かで、池には睡蓮が咲き、新年なのか美しい旗が飾られていた。(入館料12000ドン)

 奥まった建物で、竹でつくった木琴(いや竹琴か?)や一弦琴で少数民族の音楽を演奏しているので拝聴した(一人1US$の寄付)
        
◆ バッチャン経由ハロン湾に向かう
 
 昼食をハノイ名物のブン・チャー(うどん風のビーフン)と豚肉、揚げ春巻き、魚の炒め煮。飲み物はお茶とする。
 
 さて、バッチャン村へはハノイ市街を東へ抜けて紅河左岸の堤防上のガタガタ道を約30分走る。
バッチャンに入ると両側に花瓶や大きい植木鉢の類が所狭しと陳列され、まさに陶器の卸売店といった感じの店が軒を連ねている。
 
 だんだん中に入っていくと、食器類や鑑賞用の置物がたくさん置いてあるショップが増えてくる。5〜6階建てのビルが並んでいて、村というよりタウンといった体だ。あまり人が歩いておらず閑散としている、いささか拍子抜けしたが、ガイドお奨めの店に入ると、やっぱり日本人の団体客で一杯。
 
 陶磁器に目の無い妻は、手ごろな値段でいいものが無いかと物色を始める。「ちょっと古いものコーナー」で目についたものあり、店員の言によるとおよそ200年前のものだ、300US$だという(値切っても280までしか下げない)。
 200年前のものがそんな値段で買えるものか!まして本物なら国外持ち出し禁止品じゃないか!どうも店全体がインチキ臭く感じてきた。しかも意外と渋くてあまりデスカウントしてくれない。現代ものにもこれといった物が見つからなかった。
 結局、小皿を2枚だけもとめてチョン。向かいの店で、さらに2枚(合計5ドル)

人通りの少なかったバッチャン村 ガイドに案内されたお店の中で こんな荷姿で出荷される

 さて、バッチャンでの買い物を済ませたら一路ハロン湾へ。有料道路で150km、およそ3時間半かかった。
 途中、バスはトイレ休憩のために
Humanity Centerというところに寄る。ここは、国際機関の援助で設立された戦争孤児や枯葉剤の影響で正常な身体に成長しなかった子供たち(ハンディキャップドチルドレン)のための職業訓練所(日本で言う授産施設みたいなものか)らしい。たくさんの子供が、刺繍をしたり、アオザイを仕立てたりして働いている。
 みやげ物店兼ドライブインとしても営業されている。無料のお茶を頂き、ベトナム全図とドネーションを含めて5US$。
 
     
ハロン湾は陸上からはじまっているよ

 車窓のはるか彼方にハロン湾独特の風景が見られる。当たり一帯はフラットな水田地帯だが、ところどころに例の奇岩様の山が点在する、ハロン湾の景観はすでに陸上から始まっているんだ。したがってこれらの山は石灰岩からできている筈だ。
 先ほどから煙突のある工場らしき建物が並んでいたが、レンガ工場のようではないし何を作る工場なのかと思っていたが、これで納得!セメントを製造する工場だったんだ。

 ハノイとハロン湾の中間地点付近の道路わきに大きな火力発電所が見える。
 確かこのあたりにホンゲイ炭鉱と言うのがある筈だ。かの有名な無煙炭「ホンゲイ炭」を使用して発電しているのだろう。
 ベトナムでは水力発電がまだ主だとガイドのハイさんが言う。
 
 日がとっぷり暮れたころ、ホテル着。「サイゴンハロンホテル」と言う、名前からして華僑系。
 豈図らんや客の殆どは中国人と韓国人だ。
 ちょっと騒々しく、部屋もタバコくさい、朝食もいまいち、今回の旅で最低の宿であった。
   


 インターネットで調べた
バッチャンの歴史と現在は次のようだ。

 
バッチャンで陶器の生産が始まったとされるのは13世紀。それ以前からそこに陶器を生産していた村があったとされているが、正式に歴史の舞台に登場したのは1352年。バッチャン村の脇を流れる紅河の氾濫で起きた周辺の村一帯での農作物等の被害報告の中に、‘Bat Commune’として、バッチャン村が登場している。

 15世紀に入ると、バッチャンは“Bat Trang”の名で、陶器の村として記録に残っている。バッチャンは、中国・明朝への貢ぎ物のお碗を作る村として、その名を残している。<Nguyen Trai “Du dia chi(1435)”>

 バッチャンが繁栄したのは李朝(1428〜1527)、マック朝(1527〜1592)の時代。マック朝下で実施された、商業抑制政策の廃止が、商業の活発化をもたらした頃である。
 この時代は海外との海上貿易がさかんになった時代でもある。15〜17世紀のバッチャンとハイフォンは、ベトナム陶磁の北部における生産拠点であった。二大商業地であり海外への玄関口でもある タンロン とハイフォンの間を流れる紅河沿いに位置していたバッチャンは、地理的な運にも恵まれていたわけだ。

 こうして繁栄をきわめたバッチャンとベトナム陶磁は、17世紀にはいると、その繁栄に陰りが見え始める。
1684年に清が台湾を奪回し、渡航禁止条例を撤廃したのをうけて、良質の中国産陶器が海外に大量に流出し始める。完成度の高い中国陶磁器に、ベトナム陶磁器は太刀打ちできない。さらに、そこへ日本の鎖国政策も影響する。それまで東南アジアからの輸入に頼っていた絹・砂糖・陶磁器などの日本国内での生産力が高まり、それらの物を輸入する必要性が薄れた。
 一方、ちょうどその時期、ベトナム・グエン朝は、貿易の抑制政策をとった。
 
 このような歴史の流れが、ベトナム陶磁器を衰退へと追い込んでいった。

 しかしながら、バッチャンは、歴史の流れの影響を少なからず受けつつも、大きな国内需要に支えられて存続する。そして、いまなおベトナム陶磁生産拠点としての地位を確保している。
 
 バッチャンが今現在まで現存している理由の一つにホン河の近くにその生産拠点があったことがバッチャンにとって幸運であったと言われている

 でも最近では、厚みがあってしかも脆いといわれるバッチャン陶器の人気がなくなってきていて、中国の陶器のような、表面がつるつるで見栄えがよく、頑丈なものが好まれるようになりバッチャンのような陶器は売れなくなってきた。

 しかしバッチャンでも高熱の温度で焼いても耐えられるような強い土を他から持ちこんで、見栄えがよく頑丈なものを作るようになっているようだ。